ミハルオーのひとりごと。
goodwood以前に立ち上げていた別サイトでアップしつづけていた
日常日記的なモノのより抜き版。まぁ適当にお楽しみ下され。


「勉強する」ということ。

中高生を教えるバイトを、していたことがある。
元々「人に何かを教えるのが好き」だし、まあ「おせっかい」な方だし、
「学生の割のいいバイト」と言えばたいてい塾講か家庭教師と相場は決まっているものだ。

そのバイト中、確か高校1,2年生だったと思うけど、
フト気になって、こんな質問をしたことがある。

「鯨は、魚だと思う?」

その子はちょっとビックリしたような顔をして、こちらを見返してきた。
「鯨は、魚だと思う? 正直に答えてくれていいよ」
こちらがもう一回そういうと、彼はちょっとこちらから視線をそらしながら、
「なんでこの人は今さらこんなコトを聞くんだろう」というような顔をして、
吐き捨てるようにこう言った。

「魚じゃないでしょ」

「なんで?」 ぼくはまた彼に質問してみた。
彼は質問の意図がよくわからないような顔を一瞬見せたが、
再びぶっきらぼうに「だって胎生じゃん」と答えた。
やっぱりなぁ、と思った。
と同時にガッカリした。

彼は理数系が大の苦手だ。
大学も間違いなく文系を選ぶ、と自分で言っている人間だ。
まあ同じ質問を全国の中高生に投げかけたところで、 ほとんどは返ってくる答えは同じだろう。

ところがだ。
「鯨は魚ではない」。
これは一つの見方に過ぎない。

英文法の例文とか、分類学の話というのならまだわかる。
でも、動物行動学では「魚」としてとらえるだろうし、
扱うのは水産学科であり、海洋生物学であり、
かつては漁獲高として計算されていたはずだ。

なのに、なぜ「卵生ではなく胎生である」というたった一つの理由だけで、
全員が「右へならえ」で「鯨は魚ではない」と考えなければいけないのだろう。

「太陽と地球、どっちが動いているの?」という質問に関しても同じだ。
ほぼ全員が「地球でしょ」と答えるだろうが、
少なくとも気象庁をはじめとした気象予報士の人間は
「太陽が動いている」として考えてるはずだし、
占星学の人間だって「地球は動かないもの」としているはずだ。
また、そういう考えだったら「日の出」や「日の入り」なんて語も成り立たなくなる。

「地球が動く。」
それは天文学上・・・だけというわけでもないだろうが・・・の話なのである。

勉強というのは、知識を頭に格納することでどんどん頭を重たくし、
自分の生きている「現場」から、遊離していくことではないと思う。
本来、勉強は「卑近で」「楽しい」ものなのだ。
そうでなければ、ぼくはやろうとは思わなかったし、
教えようとも思わなかった。

高校時代まで、ぼくにとって「勉強」とはただの「義務」に過ぎなかった。
「やらなければいけないもの」「親のご機嫌をとるもの」に過ぎなかった。

「勉強って、楽しいじゃん」。
そう心から思うことが出来たのは、浪人時代予備校に通うようになってからである。
ある道のことを極めた人は、その面の「楽しさ」をとことんまで知っている人だ。
そしてそれを知っていれば、その「楽しさ」を人に伝えることができるはずだ。
それをぼくは予備校時代思い知らされた。

特に予備校教師は、余計なことに時間をとられない分、勉強をすることが出来る。
つまり「どんどん自分で楽しさを発見する」ことができるのだ。

「勉強って、ツライし、面白くない」。
こういう中高生は多いだろう。
でもそのほとんどは、彼らのせいじゃないと思う。
「楽しさ」を教えることが出来ない教師のせいだ。

全国の中高の先生一人一人に聞きたい。
「勉強を、心から楽しいと思ったことがあるか」。

自分が「楽しい」と思えないものを、
人に楽しいと説得力をもって伝えることは、ほぼ不可能だ。
どこかにしろ無理がでる。

これはぼくの意見に過ぎない。
でも、今の教師の生産制度で、「勉強は楽しい」と思って教職に就く人間は
果たしてどのくらいいるのだろう。

はっきり(そして自分周りの経験上から)言わせてもらうとほとんどいない感じがする。

たまたま、ぼくはすばらしい先生に巡り会えた。
それについて感謝している。

それと同時に、出会いに恵まれなかった人がちょっと可哀想だ。
「勉強=苦痛」。
この方程式を払えることが出来ないまま一生を終える人に同情の念は禁じ得ない。

ぼくの思う「楽しさの原点」。
それは「そうだったのか!」と思う瞬間だ。
新しいモノに触れあった瞬間。
新しい世界が開けた瞬間。
すなわち「(知的)好奇心が満たされた瞬間」。
これがぼくの考える「楽しさ」の原点だ。

ぼくは何をするにも、結局はこれを追い求めようとしている。
そして、教師たる人間は、これをプロデュースする仕事だと思っている。

「勉強は、楽しいんです。」

この一言を胸を張って言える人に、ぼくは教師になってもらいたい。

まぁ現在教職についてない自分がこんなコトを言ったって
なんの説得力もあったもんじゃないんだけどね。


禅問答のようなもの。

「常識を疑え」という常識。
「ルールに縛られるな」というルール。

「生きる」。
それは、あらゆる矛盾と向き合い、戦うことかもね。


占い。

高2の時だったか、
有名でよく当たるという「人相見」の先生に、
見てもらったことがある。

その先生は、
ぼくの顔をまじまじと見て、
数瞬間の沈黙の後、
しみじみとこう告げた。

「あんた、35すぎたらいいオトコになるわぁ。」

・・・35まではなんなんだっ(泣)!


或るチェーンメール。

次のような銀行があると、考えてみましょう。

その銀行は、毎朝あなたの口座へ86400円を振り込んでくれます。
同時に、その口座の残高は毎日ゼロになります。
つまり、86400円の中であなたがその日に使い切らなかった金額は
すべて消されてしまいます。

あなただったらどうしますか。
もちろん、毎日86400円全額を引き出しますよね。

私たちは一人一人が同じような銀行を持っています。
それは時間です。

毎朝、あなたに86400秒が与えられます。
毎晩、あなたが上手く使い切らなかった時間は消されてしまいます。
それは、翌日に繰り越されません。
それは、貸し越しできません。

毎日、あなたの為に新しい口座が開かれます。
そして、毎晩、その日の残りは燃やされてしまいます。

もし、あなたがその日の預金を全て使い切らなければ、
あなたはそれを失ったことになります。
過去にさかのぼることはできません。

あなたは今日与えられた預金のなかから今を生きないといけません。
だから、与えられた時間に最大限の投資をしましょう。
そして、そこから健康、幸せ、成功のために最大の物を引き出しましょう。

時計の針は走り続けてます。
今日という日に最大限の物を作り出しましょう。

1年の価値を理解するには、落第した学生に聞いてみるといいでしょう。
1ヶ月の価値を理解するには、未熟児を産んだ母親に聞いてみるといいでしょう。
1週間の価値を理解するには、週刊新聞の編集者に聞いてみるといいでしょう。
1時間の価値を理解するには、待ち合わせをしている恋人たちに聞いてみるといいでしょう。
1分の価値を理解するには、電車をちょうど乗り過ごした人に聞いてみるといいでしょう。
1秒の価値を理解するには、たった今、事故を避けることができた人に聞いてみるといいでしょう。
10分の1秒の価値を理解するためには、オリンピックで銀メダルに終わってしまった人に聞いてみるといいでしょう。

だから、あなたの持っている一瞬一瞬を大切にしましょう。
そして、あなたはその時を誰か特別な人と過ごしているのだから、
十分に大切にしましょう。
その人は、あなたの時間を使うのに十分ふさわしい人でしょうから。

そして、時は誰も待ってくれないことを覚えましょう。
昨日は、もう過ぎ去ってしまいました。
明日は、まだわからないのです。
今日は与えられたものです。

だから、英語では今をプレゼント(=present)と言います。


幸福論のようなもの。

つい最近、あるアンケートを頼まれて答える機会があった。
そんなに立ち入った質問項目もなかったので、
どの問いにもそれなりにスイスイと悩むことなく即答できたのだが、
一つだけ進めるペンが止まってしまった質問がある。

「あなたが幸せと感じるときはどんなときですか?」

この質問である。
回答欄は一行しかない。
書き込める情報量はかなり少ないと言っていいだろう。
そこで、ない頭をひねって考えてみた。  

おいしいモノを食べているとき?  
風呂にゆっくりつかっているとき?
 ぐっすりと眠りについているとき?
 競馬を楽しんでいるとき?
 娘。達の姿を見たり、歌を聴いたりしてるとき?
 人を笑わせることに成功したとき?

 ・・・などと色々と思いを巡らせて、うーむうーむと考えた結果、
ぼくは次の一行を回答欄に記したのである。

「ぼくはいつでも幸せです」。

 でもその一行を書いたら書いたで、
また「んん〜?」と考え込んでしまった。

そういえばここ数年、自分のことを不幸だと思ったことがない。
偶然にもこの数年がいわゆる幸せの絶頂期というヤツだったのかもしれないけれど、
ぼくだって人並みの感受性とやらは持ち合わせているつもりだし、
その時々に辛いこと、悲しいこと、腹立たしいことは数知れずあるし、
ぼくにだって悩み事の一つや二つあるともさ。

 だけど、例えば高3で一度受験に失敗したときも
「ま、勉強してなかったもんな」と妙に淡々と考えていたし、
例えば彼女と別れたときだって
「まぁ、仕方ないかな」というのが
今考えてみれば第一感情だったように思うのだ。

「クールな人」。

この文面だけを読んだ実際のぼくを知らない人はそういう判断を下すのかもしれない。
けど、実際のぼくはかなり感情をストレートにオモテに出す方だと自分では思っている。
クールなぼくを想像するのは、ぼくの友達にはかなり難しいことだと思うのだ。

 それはそれとしてだ。
確かにいくつかの「不幸」と呼んでもいいできごとに遭遇してはいるけれど、
そんなイヤな経験に負けないくらいの幸せっていうヤツも経験しているんだよな。
いや、ぼくだけではなくてみんなそうだと思うんだよ。

 金はないけれど子供はかわいい。
 会社はクビになったけれど暇ができた。
 離婚はしたけどまた新しい恋ができる。
 テストで赤点とったけれどドラクエは楽しい。
などなど。

 ぼくたちの身に降りかかってくるのはただの「経験」。
その事実自体には幸せも不幸もない。ただ起こるだけ。
それを目の前にしてぼくたちが「勝手に」意味づけをしてるに過ぎないと思うんだな。
その意味づけがそれぞれの人にとっての
「真実」となっていくのではないのではないだろうか?

 「事実」というやつは一つしかないけれど、
「真実」というやつは人の数だけあるんじゃないかと思うわけで。

常に悪い方にしか解釈しない人にとっては
真実は不幸なものにしかなりはしない。
いつまでも辛かったことを思い返していては
その「辛さ」はなくなりはしないし、
だいいち「辛さ」の方が離れたくたって、
それにしがみついてるのは他でもない、自分なんだから。

だから時にはその「辛さ」と縁を切って
「さぁ、どうにでもしてくれぇ」と開き直ってみることも
必要なのかもしれません。

 その開き直り方は、ぼくの場合、
とにかく「自分の好きなことをする」ってことですね。
とにかくなにかに夢中になるのが、
ぼくの幸せになるための手段なんで。

幸せな時間というのは、
いつまでも続いてほしいと思うもので、
そういう時間は、楽しく過ごしている時で、
やっぱり楽しいことというのは自分の好きなことなわけで。

 最近「自分のしたいことなんてみつかんないよ」なんていう人がいるけれど、
そういう人は持ってるけど、それに気づいていないだけだと思うんだよ。

そういうときは本当に、
「なにもしなくなれば」いい。
そうしてある程度時間がたつと、
無性に「・・・してえなあ」ってものが
ふと頭をもたげたりする。
または、知らん間に「してしまってる」ことがあったりする。

そこを捕まえればいいんです。
なにかあるさ。気長に待とう。
そういうときにこそ「果報は寝て待て」なんていうべきだ、
なんてぼくは考えているんです。

結局ね、「幸せ」になるためには、
「幸せになる」ことを目標としちゃいけないと思うんですよ。
それ以外のものを目的にして、
「幸せ」はあくまで付加価値的なものとして考えた方がいいんじゃないか。

これが今のところのぼくの結論です。

・・・でも、こういう風なことを余裕もって考えられるぼくは、
やっぱり「幸せ」なんだろうかね(笑)。

〜我々は希望というやつに一杯食わされ通しだが、
それでもやっぱりこれに導かれて楽しい道を歩み、人生の終点にたどり着く。〜
(ラ・ロフシュコー)


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